トップページ
イタリア町めぐり

アーモンドの花を前景に旧市街を見下ろす 2011年3月 地図


 トスカーナ州というと、誰もが思い浮かべるのは、フィレンツェやシエナ、ピサといった有名な観光地だろう。だが、同じトスカーナ州にあっても、ローマの北方に位置し、ティレニア海に面したマレンマ地方は、観光客にそれほど知名度が高くない。
 だが、ここには見逃すには惜しい町々が点在している。そんな町の代表格が、このマッサ・マリッティマ(Massa Marittima)である。

 イタリア語でMarittimo/aという形容詞は、「海の」とか「海に面した」という意味だから、海に近いのかと思いきや、海岸から20kmも離れており、海抜400m近い丘上の町なのである。これは不可解だ。
 と思ったら、イタリア人もそういう疑問を持つようで、ガイドブックや町の紹介サイトを見ると、その理由がたいてい書かれていることがわかった。 


旧市街の中心には、ピサ・ロマネスク様式の堂々たるドゥオーモが建っている。前夜の雨のおかげで丘の上の町は、空気が澄んでいるように感じられた。

2011.3

マッサ・マリッティマのドゥオーモ

ドゥオーモ前のガリバルディ広場

ガリバルディ広場。ドゥオーモの階段の上から撮影した。この広場から、町のあちこちに細い道が放射状に出ている。

2011.3



 辞書を引き引き調べた結果によれば、Massaというのは、もともと「農場」「農園」という意味の古語であるMansiに由来しているという。そんな平凡な名前だから、ほかにもMassaという町が数多くあった。そこで、ほかと区別するために、「海のマッサ」ということで「Massa Marittima」と名付けたのだという。
 そこで、なぜ「海の」なのかという問題である。実は、海岸からこの丘までの20kmほどは、17世紀の終わりまで人が住めない沼地だったそうで、この町が海岸線に対する前哨地帯であったために、そんな名前が付けられたらしい。調べてみると、近所の丘の町に、やはりMarittimaと付いた名前のところがある。

 ちなみに、この町の歴史は、はるかエトルスク時代にさかのぼり、銀や銅などの金属資源が豊富なことで栄えたのだそうだ。11世紀には、当時飛ぶ鳥を落とす勢いだったピサ共和国の支配を受けたものの、高度な自治権を獲得。町の中心部にある見事なピサ・ロマネスク様式のドゥオーモは、この時代に建築がはじまっている。その後は、13世紀には自由都市となるも、14世紀から16世紀のなかばまでシエナに支配され、のちにトスカーナ大公国の支配下に入ったという。


リベルタ通り
▲飲食店や商店が建ち並ぶカブール通り。
2011.3
▼新市街から階段を下り、旧市街の中心部に続くモンチーニ通り。
2011.3
モンチーニ通り


 私がマッサ・マリッティマを訪れたのは、2011年3月1日のこと。そう、あの東日本大震災の10日前である。日本に帰ったのは5日。3月11日当日は、このときの旅で引いた風邪が治りきらず、午後になっても東京の自宅のベッドで寝ていたのであった。高熱とまではいかないが、微熱というにはやや高めの熱があったためか、大きな揺れが起きても、どこか夢うつつ。たまたま隣のビルで取り壊し工事をしていたので、最初はその揺れかと思ったほどである。
 
 自宅がマンションの2階だったこともあり、幸いなことに、倒れた家具や壊れた食器もなく揺れは収まった。テレビをつけると、アナウンサーが「大津波警報!」と叫んでいたことは覚えているが、またそのままベッドに倒れ込むように寝てしまった。あれほど恐ろしい事態になっていようとは、再び目を覚ました夜6時過ぎまで知らなかった。

 このときのイタリア旅行では、ほかの町も訪ねているのだが、なぜかマッサ・マリッティマだけが3月11日と結びついている。マッサ・マリッティマを思い出すたびに、あの見事なドォオーモとその前の広場、丘の下に広がる美しい農地とともに、日本に帰ってきてすぐに体験した大きな揺れがよみがえってくるのである。


外郭道路から旧市街への入口の一つ、アッボンダンツァ門(Porta Abbondanza)。

2011.3

アッボンダンツァ門


 そんな連想が働くのも、ティレニア海に面したフォッローニカ(Follonica)の駅から、マッサ・マリッティマに向かうタクシーの思い出が深かったからかもしれない。この区間はバスの便が頻繁にあるのだが、いろいろな手違いから列車を乗り間違えたり、バス停を間違えたり、県都グロッセートに行ってしまったりと、自分の調査不足が原因ながら、大雨のなかで散々な目にあってしまったのである。
 結局、フォッローニカ駅前からタクシーを呼んだのは夜の9時すぎ。20代後半から30代なかばという感じの運転手は、日本のマンガ、アニメ好きだということで話が弾んだ。
「フランスじゃ、日本のマンガ本が人気あるというけれど、イタリアはどう?」
「もちろんだよ。フォッローニカのような小さな町でも日本のマンガを売ってるよ」といった話から、地震の話になった。

「日本にも地震が多いようだけど、2年前にはアブルッツォで大きな地震があったんだ」
「もちろん知ってるよ! 地震の3年前にラークイラに行ったんだ。きれいな町だった」
「そう、地震が起きる前まではね」
 そこまで言って、彼は付け加えた。
「日本の建物は地震に強いでしょう。イタリアは全然ダメ。そこで、最近ではイタリアも日本から地震対策を学んでいるんだよ」
「へえー、そうか。それはいいことだね」

 そんな他愛ないよもやま話だったのだが、10日後に東日本大震災があったことで、忘れる前に脳に刻み込まれてしまった。彼は、日本の地震のニュースを見て、夜遅くマッサ・マリッティマまで乗った日本人の客を思い出しただろうか。


丘を下る道

丘上都市であるマッサ・マリッティマの周囲には、マレンマ地方の肥沃な平原が広がる。町の南側の門を出ると、すぐにこうした風景が広がっていた。

2011.3



 さて、肝心のマッサ・マリッティマの町だが、丘の上のキュートな町という印象である。有名なピサ・ロマネスク様式のドゥオーモは、本家ピサの斜塔のそばに立つドゥオーモに似ているが、丘の上に大きな教会だけがすっくと建っているものだから、さらに崇高に感じられる。
 教会の前の広場もいい。狭い路地がくねくねと続く旧市街のなかに、ぽっかりと空いた空間がどこか浮世離れしている。

 折しもアーモンドの花が満開であった。桜にも似た淡いピンクの花である。この花が咲くのを見て、この町の人も春の訪れを感じるのだろうか。
 そうそう、マッサ・マリッティマでは、ほかの丘上都市・山岳都市とは違って、高い場所に新市街があって、低い場所に旧市街がある。ちょっと不思議な感覚だ。そんな新市街の公園から、アーモンドの花越しに見るドゥオーモは、また格別なものであった。トップの写真がそれである。


●所在地
トスカーナ州グロッセート県
●公共交通での行き方
・フォッローニカ駅前から路線バスで35分、終点。日中約1時間おき。グロッセートからは1日3往復、所要約1時間。シエナからは1日1往復、所要1時間45分。
・フォッローニカへは、ローマからイタリア鉄道のリヴォルノ、ピサ方面行き特急(IC)で2時間強。
●見どころ
丘の上に建てられた見事なドゥオーモ。そして、丘の周囲に広がるぶどう畑や小麦畑の織りなす風景。
●老婆心ながら
孤立した田舎町だが、食事には苦労しない。夜中でもドゥオーモ前広場で店は3軒ほどが開いている。

丘の下にあるマッサ・ヴェッキアからの眺め 町の西部に位置する小さな集落マッサ・ヴェッキアのぶどう畑から、マッサ・マリッティマを見上げる 2011.3
2012年9月作成

■トップページ | 「イタリア町めぐり」目次に戻る■