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| それは1985年の秋のこと。イタリアの隣に、(旧)ユーゴスラヴィア連邦という国があったころの話である。ソ連、ルーマニア、ユーゴスラヴィアを訪ねた私は、いまではクロアチアの首都となっているザグレブから、スロベニアを経由してトリエステに向かう夜行列車に乗り込んだ。 2等車ではあったが、コンパートメント1室をひとり占めすることができ、トリエステまでぐっすりと睡眠をとれそうだとほくそえんでいたのである。 ところが、夜中の2時ごろだっただろうか、どやどやと人の乗り込む気配がしたかと思うと、20歳前後と思われる男女が私のコンパートメントに入ってくるではないか。どうやら、ほかにも同行の友人がかなりいるらしく、しばらくの間、あっちに行ったり、こっちに来たりと騒がしい。 それでも20分ほどすると落ち着いてきたようで、やれやれと思ったのだが、いいかげん目が冴えてしまった。そんな私の様子を見ていたのだろう、男のほうが英語で話しかけてきた。 |
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トリエステの中心部にあるカナル・グランデ(大運河)。名前は雄大だが、ヴェネツィアのそれとはかなり趣が違う。海岸からわずか200メートルほど続いているだけ。 1985.10 |
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「にいさん、どこから来たんだい」 「日本からだよ。あんたたちは手ぶらでどこまで行くの?」 「オレたちは、きょうロックのコンサートを聞きに行くのさ」 「へーえ」 「トリエステは昔は同じ国だったから、IDカードさえあればビザなしで行けるんだ」 「ふーん」 「ハードロックは最高さ!」 「ほーお」 当時は、東欧の国でもかなり自由化が進み、若者たちにロック熱が高まってきたころだった。そもそも、ソ連とは袂をわかって独自の社会主義路線をとっていたユーゴスラヴィアである。町を歩いていても、ほかの東欧諸国のような重苦しい雰囲気は、ほとんど感じられなかった。 |
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トリエステの町並みは、「小ウィーン」と呼ばれているだけあって、イタリアというよりはオーストリアに近く感じられた。 それもそのはずで、歴史的にはイタリア文化圏ではあったのだが、第1次世界大戦が終わるまではオーストリア・ハンガリー帝国の領土だったのだ。 1985.10 |
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それにしても、80年代なかばといえば、ハードロックがもっとも下火だった時代ではなかろうか。日本では「ハードロックを聴く」などとは、恥ずかしくて口にできなかったころである。真剣な表情で話す彼のことを、私は内心ではにやにやしながら見ていたのだった。 「ところで、日本ではどんな音楽が流行っているんだ」 ここで「ロックさ!」なんて答えたのではおもしろくない。実際に、そのころ日本やヨーロッパでは、ワールドミュージックや民族音楽がちょっとしたブームになっていた。そこで、どんな反応をするかと期待しつつ、こう答えたのである。 「うーん、フォークミュージックかな。世界各地のね」 すると彼は、あきれたような顔をしていたかと思うと、それっきり話しかけてこなくなってしまった。 ----ちょっと意地悪だったかなあ。でも、本当なんだからしょうがない……。それにしても、真夜中に手ぶらで外国に行くっていうのも変だよなあ。イタリアの国境で、絶対にしつこく調べられるに違いないぞ。ふっふっふ、気の毒に。 |
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町中に忽然と表れるローマ時代の円形劇場「テアトロ・ロマーノ」。こんなところは、ちょっぴりイタリアらしい(?) 1985.10 |
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そのあとは、何も話しかけられないのをいいことに、熟睡に入った私であった。目が覚めたのは、国境でイタリアの係員がパスポートチェックにやってきた音がしたときである。 同室のユーゴ人の男女は、IDカードをちょっと見せただけでおしまい。 私は、もちろん日本のパスポートを見せた。すると係員は、「どこを通ってきたんだ」とか「どれがおまえの姓で、どこからが名前なんだ」とか、いやにうるさい。手元のブラックリストらしきものと照合したかと思ったら、次はバッグを開けろという。 久しぶりにイタリア語が聞けたので、うれしくなってべらべらとしゃべったので、かえって変に思われたのか。それとも、こんなルートでイタリアに入国する日本人なんて、めったにいないから不審がられたのか。いずれにしても、バッグの隅々まで見られたなんて、ほかにはソ連に入国したときぐらいである。 ----なんだ、なんだ。あいつらのほうが、よっぽど怪しいじゃないか。 と思ったが、すぐに気がついた。国境の町トリエステでは、いくら社会体制が違うといえども、隣国の青年はなじみが深いのだ。大きなバッグを持って変なイタリア語を話す東洋人のほうが、よっぽど怪しいのである。 |
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トリエステのオベルダン広場から出る路面電車。実は、知る人ぞ知る、不思議な乗りものである。 このあと、ケーブルカー式の機関車(左に見えているオレンジの車両)の後押しで急坂を上り、郊外のVilla Opicina(ヴィッラ・オピチーナ)に向かうのだ。 1985.10 |
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パスポートチェックも無事に終わると、車窓はもうだいぶ明るくなっていた。列車がトリエステの駅に到着したときには、すでに同室の若者たちは、別のコンパートメントにいる友人のところに行っていたようだった。 私は眠い目をこすって駅を出た。朝だというのに、トリエステの空が、びっしりとうろこ雲におおわれているのが印象的だった。 それから数年後。ユーゴスラヴィア連邦に内戦が勃発する。まっさきに独立を宣言したスロベニアでも、次いで独立を宣言したクロアチアでも、連邦軍との激しい内戦があったという。 新聞やテレビでそんなニュースを目にするたびに、私はあの夜行列車を思い出すのであった。そして思うのだ。あの「ハードロック」青年もまた、独立のための戦いに加わったのだろうか、無事でいるのだろうかと。 |
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●所在地 フリウリ-ヴェネツィア ジューリア州トリエステ県 ●公共交通 ・ヴェネツィアから国鉄(FS)で約2時間。 ●見どころ ・不思議な路面電車兼ケーブルカーに乗って丘の上にあるVilla Opicinaに行く途中は眺めがいい(らしい)。 ・文学好きならば、この町に英語教師として住んでいたジェームス・ジョイスと、地元の作家イータロ・ズヴェーヴォの交流の跡を探るのも一興。 ・あるいは、須賀敦子さんの「トリエステの坂道」の文庫本を右手に、同女史訳の「ウンベルト・サバ詩集」を左手に持って散歩するもよし。 ●老婆心ながら 「国境の町というから、暗い町なのかと思っていた」と言ったらトリエステの人に笑われた。日本人とは「国境」のイメージが違うことがわかった。 |
Castello(城)から町が一望できる。オーストリア・ハンガリー帝国時代は重要な軍港だったそうな。 1985.10 |
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