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駄菓子のイタリア無駄話目次
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 前回は、1981年のフィレンツェで赤ワインを飲み過ぎた駄菓子青年の粗相を語り、大変失礼をばいたしました。今回は、その名誉挽回、汚名返上のため、白ワインを通じて得たうるわしい思い出を書くことにいたしましょう。
 時代はずずいと下って、1996年の夏のことでございます。

 両親を連れた3週間にわたるイタリア旅行を終え、私はローマ空港で両親を見送った。
「さあ、あと1週間はのびのびするぞ~」
 この旅行の残り1週間を、ガイド兼通訳兼雑用という大役を終えた自分に対するねぎらいを込めて、「自由行動」にとっておいたのである。
 その日はローマ・テルミニ駅近くに宿をとった。半日ほど時間があいているので、以前から行ってみたかったフラスカーティに足を向けることにした。フラスカーティは、ローマの南にある丘の町で、白ワインで有名なところである。
 だが地下鉄とバスを乗り継いで、はるばる着いた丘の上には、なぜか若者がうじゃうじゃといて落ち着かなかった。ローマの暑さを避けてきたのかもしれないが、フラスカーティもかなり暑い。おまけにモヤがかかっていたので、見晴らしもよくない。
「まあ、いいか。腹も減ったし、メシでも食おう」
 そこで、狭い町を適当にブラブラしてシブいおじさんの写真などを撮ってから、夕食にすることにした。

フラスカーティの夕景 シブいおじさんたちの夕涼み風景。


撮影 : 1996/07 Frascati

 どこかいいところがないかと、うろうろと小さな町を2周ほどすると、たまたま目に入ったのが、「家の畑でできた白ワイン飲ませます」てな感じの汚い貼り紙。その横には、地下へ続く薄暗い階段があった。
 私は、一瞬迷ったのち、暗がりの奥にほのぼのとしたちょっとばかりおしゃれなワインバーを想像して、階段を下りていったのであった。
 だが、店に入って驚いた。目の前に飛び込んできたのは、ほのぼのなどしてなく、ましてやおしゃれでもない、ただ薄汚いだけの飲み屋だったのである。
 がらんとした店内には、10人ほどが座れる大きな木のテーブルが5つ。その両側にある長椅子には、もちろん背もたれなどなく、まるで海の家にあるような代物である。20年ほど前の大学の学生食堂のほうが、はるかにましだった。
 客は年配の男性がぱらぱらと数人。不思議なことに、みんな背をまるめてじっとしている。ふと、ブリューゲルの絵に出てくる農民を思い出した。彼らは、おかしな東洋人が入ってきたというのに、何の反応も見せないのだ。
 あまりにも不気味なので一瞬出ていこうかとも思ったが、乗りかかった船、入りかかった居酒屋である。
「まあ、いいか、どうせヒマだし……」
 私は、旅行のときのモットーを自分に言い聞かせた。
 それに、もしかしたら、何かおもしろい出来事が起こるかもしれない。そんな好奇心も手伝って、わくわくどきどきしながら、誰も座っていないテーブルに席をとったのであった。
 席について改めて部屋を見まわしたが、やはり薄汚い。いまどき、東京・浅草の観音様の裏にある飲み屋でも、もっときれいだ。しかも、殺風景である。メニューなどもちろんなく、壁はむき出しで貼り紙なども見当たらない。
 まるで、1950年代のイタリアのネオ・レアリスモ映画に出てきそうな店だ。ここならば、きょうにでもビットリオ・デシーカの映画のロケができる。


これがワイルドなワイン居酒屋のようす。写真でみるとかなりこぎれいに見えるが、実物は……。
左端に、私が飲んでいるワインのデカンタが写っている。
改めていま見ると、となりのテーブルには背もたれのあるイスがあったのだ。
撮影 : 1996/07 Frascatii
ワイルドなワイン居酒屋

 そんなことを思ってドキドキしていると、店の人らしいおばさんがやってきた。
「4分の1リットルか」と聞くので、「2分の1リットルくれ」と答えた。ついでに、チーズとサラダも頼んだ。
 調理場などという気のきいたものはなく、店の中にガラスで仕切られた3メートル四方ほどの配膳場らしきものがあるだけで、そこにチーズやらハムやらがちょぼちょぼ置いてある。ワインが入った大きな瓶も無造作に並んでいた。
 白ワインはなかなかよかった。いかにもとれたてという若々しい味で、すっきりとした飲み心地である。
 とはいえ、ほかにすることもないので、ガイドブックなんぞを見ながら、ぐびぐびとワインを飲み続けるほかになかった。ほかの客は、相変わらず地蔵様のように動かない。さっきの女性も店の隅に座ってぼーっとしている。
 何十分もそんなことを続けていたらワインがなくなったので、こんどは4分の1リットルを頼んだ。パンもあったので、ハムと野菜をはさんでもらった。
「残念! 何も起こらなかったか……。これを食ったら店を出よう」
 こんな無為な時間を過ごしてしまったのも、イタリア語はおろか英語すら話せない両親をローマ空港に置き去りにした報いかと思い、しばし反省にひたった駄菓子青年であった。
 だが、そんなことを考えていたときである。階段のほうから、にぎやかな話し声と足音が聞こえてきた。

(つづく)


 


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