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駄菓子のイタリア無駄話目次
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 イタリアでは、とにかくバール(Bar)なしでは生活できなかった。コーヒーを飲んだり、酒を飲んだり、水を飲んだり、パンを食べたり、トイレを借りたり、イタリア語を教えてもらったりと、いろいろとお世話になったものである。私にとっては、「町のなかの学校」というようなものだろうか。
 だが、そんなバールのなかで、どうしてもわからなかったことが一つあった。それは、カプチーノとカフェラッテの違いである。
 確かに、「カップッチーノ、ペルファボーレ」とたのむと、エスプレッソコーヒーを注いだカップの中に、泡立ったミルクを入れて出す店が多かった。それに対して、「カフェラッテ、ペルファボーレ」と注文すると、ガラスのコップにエスプレッソコーヒーと温かいミルクをまぜて入れるだけで、泡立っていない飲み物が出てくることがよくあった。
 だが、なかにはぶくぶくと泡立ったカフェラッテを出す店もあったし、ときにはカプチーノとたのんでも泡のないこともあったのである。
 顔見知りになったバールの主人にその違いを聞いたこともあるのだが、彼は「同じだよ」というだけなので、疑問はいっこうに解決しない。
 まあ、両者の区別はともかく、今回はそのカプチーノの泡をめぐる話である。

バールでのいこいのひととき 赤い幕が目にまぶしいカフェテラス。
サルデーニャ島の中心都市カッリャリ(カリアリ)にて。


撮影 : 1990/09 Cagliari

 同室のS氏といっしょに、フィレンツェの中心部にあるバールに行ったときのことである。彼が変な注文をするのだ。
「ウン、カップッチーノ、センツァ・スキューマ、ペルファボーレ」
 つまり、「スキューマなしのカプチーノをくれ」とたのんでいるのである。
「えっ、なんですかSさん、スキューマって」
 すると、S氏はにっこりとほほえんで教えてくれた。
「泡のことだよ、ダガシくん。ボクは、あのカプチーノの泡が苦手でね……。だからいつも泡なしってたのむんだ」
 ふーん、と私は思った。
 どちらかというと神経質なSさんである。もしかすると、あの泡が彼の繊細な神経に触るのかもしれない----そう好意的に解釈した駄菓子青年であった。
 それにしても、私と同様にイタリア語の初心者でたいして語彙がないくせをして、そんな単語を知っているS氏は妙であった。
 と、そんな感想をいだいているあいだに、店の人はガラスのコップにはいったカプチーノから泡をすくいだす。そして、そこにミルクをつぎたして、S氏の前に出したのである。
 だが、それはどう見ても、私がたのんだカプチーノとくらべると、うまそうではなかった。ビールだって泡が適度にあるからいいのである。
「やっぱり、カプチーノは泡があったほうが感触がいいし、ウマいと思うけどなぁ……」
 私がぽつりと言うと、S氏からは意外な答えが返ってきた。


これは、イタリア北部のベルガモの広場にあるカフェテラス。不思議なふんいきの家族が、それなりの水いらずであった。
撮影 : 1996/07 Bergamo
カフェテラスで家族水入らず

「いやいや、ダガシくん。泡があるとねぇ、その分だけ液体が少なくなるやろ。だから、ほら、それだけ損やないか。同じお金払うんなら、飲み物が多いほうがええんやないか」
 私は、S氏の論理を聞いて大きな衝撃を受けた。こんなことを考える人がいるなんて……。繊細な神経だなんて思った自分がバカだった。S氏は、単なるケチだったのである。
 その後もS氏は、バールに行くと欠かさず「センツァ・スキューマ」を注文しつづけた。感心なことに、どのバールでも、店の人はいやな顔一つせずに、泡をすくってはミルクをつぎたしてくれるのである。なかには、「こんなんでいいか」とS氏の顔色をうかがう人までいる。
 S氏はというと、そんな作業を見ながら、「ほら、あんなにミルクが多いやろ」と、ただでさえ細い目をさらに細めて見つめていたのだった。
 いつもいつもそんな光景を何度も見せつけられていたので、だんだんと私は自分が損をしているような気分になってきた。
 そんなある日、久々にS氏とバールに行く機会があった。また「センツァ・スキューマ」かと思っていると……、
「ウン、カップッチーノ、ペルファボーレ」
「あれ、Sさん、きょうは泡ありでいいんですか?」
 すると、S氏はしみじみと言ったのである。
「うん、いろいろ試してみたんやけどね、やっぱりカプチーノは泡があるほうがおいしいですわ」
 そのことばを聞き、私はちょっとほっとして、にっこりとうなずいたのであった。



 


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