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駄菓子のイタリア無駄話目次
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 前にも書いたとおり、イタリア滞在中にいちばん困ったのは食事である。
 なにせ安下宿の部屋には小さな洗面所が一つ。とてもじゃないが食事をつくることはできない。せいぜい、コンセントから電気をとってスープを飲むくらいである。
 で、どこで食事をとるかが毎日の最大の課題であった。貧乏学生ゆえ、レストランなどもってのほか。トラットリーアに行くのも盆と正月くらいであった……というのはウソだが、めったに行けなかった。セルフサービス・レストランも毎日行っていると金がかかる。だからといって、毎食切り売りピザを食べるわけにはいかない。
 ああ、うまいもんを腹いっぱい食いたい----と願う、若くて食欲旺盛な私であった。


 そこで、目をつけたのが、前にも書いた「メンサ」(学生食堂や会社の食堂)である。
 とくに学生食堂は学生ならば500リラ(当時のレートで約100円弱)で昼食が食べられるというではないか。
 うまくはないだろうが、安くて腹いっぱい食えそうである。大学の学生でなくても入れるというウワサを聞いたので、意を決して出かけてみた。
 フィレンツェの学生食堂は、Via San Gallo(サン・ガッロ通り)にあるという話だ。
 どこにあるかはわからないので、語学学校が終わってから、そのサン・ガッロ通りをきょろきょろと眺めながら歩くことにした。
 すると、いかにも腹をすかした顔の学生が入っていく建物があるではないか。よしよし、ここに違いないと、みんなのあとについて、大学の校舎と思える建物に入り、薄暗い階段をのぼっていった。

フィレンツェの路地

フィレンツェの旧市街は、こんな狭い道ばかり。
学生メンサのあったサン・ガッロ通りも、このような道の一つであった。
撮影 : 1981/12 Firenze

 案の定、2階に食堂の入口らしきものが見えてきた。だが、入口にたどり着くまでが大変であった。
 入口の手前には、7~8メートル四方くらいの踊り場らしき空間があるのだが、そこに数十人の空腹の学生が待っているのである。
 待っている----といっても、日本人やイギリス人やロシア人のように、整然と列をつくっているわけではない。
 一度に一人しか通れない入口を目指して、腹をすかしたハイエナもかくやと思えるいきおいで、数十人の学生たちが押し合いへし合いをしているのである。足の踏み場もないどころか、指のつき場もないほどで、暑苦しいわ、汗くさいわで、息がつまりそうだ。
 育ちの上品な駄菓子青年にとっては、とても耐えられない状況ではあったが、なにせ金がないうえに、好奇心も旺盛だった。
----まあ、いいか。午後はどうせヒマだし。とにかく、みやげ話に、どんなものを食わせるのか見てやろう。
 見渡しても東洋系の顔は見えないのが心細かったが、ここでひるんでは日本男子の名がすたると、満員の通勤電車で鍛えた技術を生かし、隙間を見つけては徐々に前進を重ねたのである。
 そして、約十数分後、ようやく入口近くにたどりつくことができた。ようやく第一関門をくぐり抜けたという気分である。
 見ると、入口には駅の出札所のような窓口が一つあり、鬼のような顔をしたおばさんが、ガラスの向こうからにらんでいるではないか。学生は、そのおばさんに金を出して、食券をもらっている。人によっては、すでに引換券らしきものを持っているのもいた。
----ありゃあ、なんて言えばいいんだろう、困ったなあ……と思っているうちに、私の番になった。


フィレンツェの夜景 ミケランジェロ広場から見たフィレンツェ中心部の夜景。中央左側の橋がポンテ・ベッキオ。

撮影 : 1981/10 Firenze

 おばさんは、こわい顔で私をじっと見つめる。しかたがないので、私は「ウーノ(一人)」などと間の抜けたことを言うしかなかった。
 すると、おばさんはめんどくさそうに「ドクメント(document)は?」と言う。証明書、すなわち学生証を出せというのだ。
 こちらは短期の語学留学生だから、そんなものはない。とっさに、東京で出がけにとった「国際学生証」なる怪しげな証明書をかばんから出して見せた。
 だが、おばさんは、相変わらずめんどくさそうな顔をしながら、それじゃダメだという手ぶりをした。
----こりゃあ、困ったぞ。どうすりゃいいんだ……。
 うろたえていると、おばさんはひと言、「2000リラ」。
 どうやら、学生証のない者が食べるときは割増料金ということらしい。
----まあ、2000リラでもいいか。乗りかかった船、入りかかったメンサだ。
 私はポケットのなかから札を取り出し、「ほら、釣りはいらんぞ」とばかりに1000リラ札2枚を出して、ようやく第二関門を突破することができたのであった。
 だが、これですべてが終わったわけではなかった。無事に昼飯を口にするまでには、もう一つの大きな関門が私を待ち受けていたのである。
(つづく)


 


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