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駄菓子のイタリア無駄話目次
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 彼女の名前はエルビラといった。
 北イタリアのトリーノに住んでいる彼女とは、いまでもたまに手紙のやりとりをしているが、あの安トラットリーアで会って以来、実際に顔をあわせたことがない。
 実は、それから何度もイタリアに旅行しているのだから、会おうと思えば会えるのだが、連絡をとっていないのである。まさか彼女は、私がこれほど近くに来ているとは思ってもみないだろう。

 会わないことにたいした理由はない。
 昔の夢を壊したくないから……なんてロマンチックなことではない。ましてや、会ったら情熱が沸き上がるから……なんていう色っぽい理由でももちろんない。
 ただただ、トリーノという町が、イタリア観光には不便なところに位置しているからなのである。どちらかというと、中部から南部イタリアが好きな私にとって、フランス国境に近いトリーノはどうも足を運ぶチャンスがない。同行者がいる旅行ではなおさらである。
 申し訳ないとは思いつつ、何か悪いことをしているような気持ちで、こっそりとミラノやローマの空港に降り立つ私なのであった。

夕陽を浴びたドゥオーモ 夕陽を浴びて輝くドゥオーモの正面。
画面左中央の黒い点は、ゴミではなくて鳥であった。

撮影 : 1990/08 Firenze

 1年に1回だった手紙のやりとりは、いつしか2年に1回くらいになってしまった。
 やがて、彼女から、結婚して子どもが生まれたという便りが届いた。女の子で、エレオノーラという名前をつけたとあった。どうも読みやすい手紙だと思ったら、手書きからタイプライターに変わっていたことに気づいた。

----エレオノーラか、おおげさな名前だなあ。オペラに出てきそうだ。それにしても、結婚の相手というのは、あのとき安トラットリーアでいっしょにいた彼なんだろうか。でも、それにしてはずいぶん年がたっているからなあ。もしかしたら、別の男かもしれないぞ。

 もちろん、そんなことを手紙で尋ねるわけにもいかず、その疑問が解決するには、まだ10年近い歳月が必要であった。

 さらに、数年がすぎた。私の仕事は忙しくなる一方で、長いイタリア語の手紙を書くには精神的にもつらくなっていた。
 そこで、たまに旅行に出かけたときに、思い出したように現地から絵はがきを送ることに方針を変更した。これならば、一言なにか書くだけでいい。私にしてはいい考えであった。
 さっそく返事がきた。

----なになに、とてもきれいな絵はがきありがとう……か。そうだろう、そうだろう。えーと、でも、あなたの近況をもっと詳しく知りたいわ。奥さんの写真も送ってね。返事を早くちょうだいね……うーん、やっぱりダメか。
 せっかくのアイデアも、うまく切り返されてしまい、またもや次の手紙を書くのがおっくうになってしまった。

 さて、彼女への手紙を書くことをすっかり忘れていたある日のこと。返事も書いていないのに、彼女のほうから手紙が来た。こんなことは、神田川コーラス事件以来2度目である。
 なにか特別のことでもあったのかと思ったが、いつものような薄っぺらい封筒のなかに、薄っぺらい紙がはいっているだけである。私はいつものように、カッターナイフで封を開けて、手紙を読みはじめた。



横断歩道にて

中心部の横断歩道にて。おばさんも、かっと目を見開いて横断歩道をわたる。
撮影 : 1981/11 Firenze


「チャオ、ダガシ。悲しいお知らせがあります」

 私はちょっと緊張した。

「いまから20年近く前、フィレンツェのトラットリーアで会ったときに、私といっしょにいた男の子を覚えているでしょうか。彼が、先日ガンで亡くなったのです。彼と私は、20年以上もずっといっしょに空手をやってきました。私の夫の友だちでもあり、まるで兄妹のようだったから、とても悲しい……」

 そこまで読んだとたん、私の頭のなかに、あの夜の安トラットリーアの情景が浮かんできた。
 といっても、かなり記憶が風化しているために、1枚の静止画でしかない。隣のテーブルに座っている彼女が、私たちのテーブルのほうに振り向いて、何かをしゃべっている。その静止画の右奥のほう、彼女がいるテーブルの向こう側に、穏やかな表情で私たちの話を聞いている若いイタリア男がいる。でも、残念ながら顔がはっきりとしない……。

 私には珍しく、すぐに(といっても1週間くらいはかかったが)返事を書いた。
「手紙を読んで驚きました。もちろん、あの日のことはありありと覚えています。青春の1ページですから。彼のこともよく覚えています」

----おお、われながらなんとキザな文句だろうか。彼の顔まではよく覚えていないけど、まあいいか。ウソは書いてないし。それにしても、こんなことなら彼とももっと話しておくんだった……。いやあ、あれから20年かあ。青春の1ページどころか、歴史の1ページになっちゃったなあ……。

 私の返事に対して、またもや素早く返事がきた。
「覚えていてくれてうれしいわ。ところで、パーソナルコンピューターの記事を書いているとのこと。私の電子メールアドレスを書いておくわね」

 見ると、ライコスの無料メールであった。
 そこで、試しに簡単なメールを送ったら、次の日に返事がきた。そこで、私も間髪を入れず(といっても2、3日はかかったが)返事を書いた。こうして、それまで年に1回程度しかやりとりしなかったのがウソのように、東京とトリーノのあいだでメールが数往復ほどしたのである。

 しかし、いつもメールばかり書いているわけにもいかない。時間がたつにつれて、またもや疎遠になってしまった。
 先日、ふと数か月ぶりにメールを出そうと思い立って、旅先で撮った写真を添付してメールを送ってみた。ところが、何度送っても戻ってくるではないか。2、3日たってから再送してもダメだった。

----やっぱり無料メールアドレスだからなあ。

 駄菓子元青年はため息をついた。

----しょうがない。久しぶりに手紙でも出すか。

 そう思い立ってから、もう半年が過ぎてしまった。せめて今年のクリスマスには、ちゃんと間に合うようにクリスマスカードを送ろうと思っている。




 


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