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東京 -昭和の記憶-
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タイトル 
 

 旧・浅草区(現・台東区の東側)のほとんどは空襲で焼失してしまったが、ごくわずかに焼け残ったのは、区北部の日本堤、三ノ輪町、石浜町の一部を除くと、浅草橋駅北側にある鳥越、小島町、向柳原のそれぞれ一部に過ぎない。
 現在の浅草橋二、三、五丁目の一部と、鳥越一丁目、小島一、二丁目 あたりである。

 このうち鳥越は、祭りで有名な鳥越神社があるところ。昔ながらの惣菜屋が並んでいる「おかず横丁」があることでも知られている。家内制工業が盛んだった下町では、母親がゆっくりと食事をつくる時間がないために、そうした惣菜屋が繁盛したものだった。

  今回は浅草橋を中心に、鳥越から馬喰町あたりの家並みである。このあたりは繊維産業とそれに関連する小工場が多く、墨田区で繊維工場を営んでいた父や叔父に連れられて、問屋やボタン屋に顔を出した覚えがある。
 2011年現在も、戦争で焼け残ったと思われる古い立派な家が、わずかに残っているが、もはや風前の灯火といってよい印象である。

*写真にポインタを置くかタップすると、同じ場所の2011年の写真が見られます。


浅草橋五丁目交差点そばの商家

浅草橋駅から北西に200mほど。忍岡高校の南側、浅草橋五丁目交差点近くにあった立派な商家3軒。住所は浅草橋2-8。
左側の2軒は看板建築となっており、左端の店は「小林味噌店」であることが下の写真からわかる。

*下の写真には現在との比較はありません。

1985.8(2011.1)

 

浅草橋五丁目交差点そばの商家

鳥越一丁目の町並み

さらに北に向かって歩き、蔵前橋通りを渡ると住所は鳥越となる。この写真の左側には、現在はスーパーのココスナカムラがある。
このときは、おかず横丁も見るつもりだったが、どこを迷ったのか行き着くことができなかった。

1993.11(2011.1)


これは鳥越に隣接する小島一丁目。写真を撮ったのはすでに平成に入ってからだが、道の左側に看板建築の商店が、ずらりと並んでいる。2011年も、その何軒かが残っているのがわかる。

1993.11(2011.1)

小島一丁目の看板建築

浅草橋五丁目の三階建て看板建築

再び浅草橋駅に向かって南下。これは、浅草橋五丁目にあった銅板葺きの3階建て看板建築「新月堂」。
手前右にある武蔵屋酒店もマンションに変わっていた。

1993.11(2011.1)


新月堂の全景。三階建ての建物に二階建ての建物が付属しているのか? 非常にユニークな外観をしている。住所は浅草橋5-14。

1993.11(2011.1)

浅草橋五丁目の三階建て看板建築

浅草橋二丁目のT字路

浅草橋二丁目のT字路。このあたりは、あちこちにT字路があるのがおもしろい。住所は浅草橋2-19。

1993.11(2011.1)


 


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