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東京 -昭和の記憶-
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タイトル    

三丁目北側の家並みと路地
 高架になった京成曳舟駅の中央下をくぐる道は、くねくねと左右に曲がりながら京島三丁目の中央を貫いていく。昭和のはじめまでは小川が流れる田んぼの畦道だったそうで、住宅が密集してからは昭和30年代初めまで、道に沿ってどぶ川が流れていたという。そして、このくねくね道の北側に入ると、ますます迷宮は混沌としていく。

このくねくね道を奥に行くと、京成曳舟駅、地蔵通りを経て隅田川に至る。正面左側には、内装屋、自転車屋、そば屋などが並んでいたが、不燃化計画のもとで集合住宅になった。

1980/05(2018/06)

くねくねと蛇行する道

くねくねと蛇行する道

上の写真の中央奥から、反対側を振り返ったところ。正面に見えるタバコ屋は、取り壊されたあとでポケットパークとなり、桜の木が植えられ、地下の雨水槽から水を汲み上げるポンプが設けられた。

1988/08(2018/06)




■京島三丁目の路地  *現在との対比はありません。

裏通りと路地の交差点! 「一時停止」の手前には「5K」という制限速度の表示もある。この裏通りも私道のようで、この手前側20mほどで突き当たる。
この光景は2018年も健在。

1981/08

路地を横切る狭い路地



▼車が通らない路地は、子どもが安心して遊べる場所でもある。
1981/03

下町の路地は子どもの遊び場
ディープ下町のディープ路地

▲通り抜けることのできる路地。「屋根に上らないこと」というのがシュール。この道は2018年現在も健在だが、この文字はなくなっていた。
1981/08
戦時中の防火用水

「吾嬬西五防火用水」と書かれている石製の防火用水槽(水ため)。吾嬬町西五丁目は、京島三丁目の東部にあたる。戦前・戦中のもので、1980年代はあちこちで見かけた。なかには、ためた水で金魚を飼っている家もあった。

1982/06


三丁目東側の家並みと長屋
 橘銀座通り(キラキラ橘)の100mほど東側を並行しているのが、京島三丁目の内側では珍しく、自動車がほぼまっすぐ走れる道だ。そして、その両側には見事な棟割長屋が2018年も建ち並んでいる。
 実は、伯父の親友がこのうちの1軒に住んでいたのだが、伯父の死後は会う機会もなく、1990年ごろに京成電車でばったり顔を合わせたのが最後である。

これだけの数の棟割長屋が、道の両側に並んでいる光景は、すでに都区内でほとんど残っていなかったと思う。驚くことに、2018年も健在。
表札を一通り見たが、伯父の親友の姓は見つからなかった。
(その後、2020年に取り壊されました)

1982/06(2018/06)

道の両側に並ぶ棟割長屋

低層の商家が並ぶ

上の写真を北側に100mほど行ったあたりから南側を望む。京島三丁目の内側では、この道幅でこれだけ直線が続く道はここだけ。

1982/09(2018/07)


上の写真の反対側(北側)を見たところ。ここにも立派な棟割り長屋があった。

1982/09(2018/06)

棟割長屋

 

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