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とりあえず写真館


サラエボ (1985年)

サラエボの子ども

丘の上にある墓場と、羊の帰宅風景
サラエボは坂が多い
のちの「スナイパー通り」
 旧ユーゴスラヴィア(現ボスニア=ヘルツェゴビナ)のサラエボにやってきたのは、1985年の旅の途中でのことである。旧ユーゴは、社会主義体制下にあったとはいえ、独自の道を歩んでいた国であり、町の雰囲気も半分は西側世界のように感じられた。
  しかも、サラエボといえば冬季オリンピックが開かれた町である。中心部はかなり近代化されており、同時に訪れたドブロブニクやザグレブなどにくらべると、観光地としての見どころは多くはなかった。第一次世界大戦のきっかけになったオーストリア皇太子暗殺の跡を見ると、あとはぶらぶらするだけ。あの内戦がなければ、サラエボの記憶は、いまごろかなり薄れていたに違いない。

 強いて言えば、印象に残ったのは、中心部を見おろすようにいくつもの丘が連なり、坂道が多かったこと、そして中心部にイスラム教のモスクの尖塔が目立っていたことだろうか。町のところどころに書かれたアラビア文字が当時は珍しく思えたものだった。
  無知だった私は、「なぜ、ここにこんなにモスクがあるのか? イスラム教徒がそんなにいるのだろうか?」なんて思いながら散歩していたのである。

  まさか、ここで悲惨な内戦が起きるなんて、当時は想像だにしなかった。一番下の写真にあるような広い通りに、しゃれた建物が立ち並び、そこをスマートな路面電車が軽快に走り抜けていく--そんな風景を、たぶんオスマントルコの支配下にあったときに伝わったに違いないトルココーヒーを飲みながら、ぼんやりと眺めていた29歳の私であった。
 もの静かな人たちが住む静かな町というのが、私にとってのサラエボの記憶である。

  内戦のニュースを見るたびに、あの丘の上からスナイパーが、あの大通りを行く人たちを狙っているのかと思うと居たたまれない気分になったものである。はたして、一番上の写真で、はにかんだ笑顔を見せてくれた子どもたちは、無事生き延びられたのだろうか。
2008年4月作成




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